活動報告

終戦の日に死を思う

  • 米山 隆一
  • at 2014/8/19 13:51:26

  8月15日は、終戦の日でした。戦争に対して、今ほど様々な立場からの意見が出されていることはないように思います。職業柄、ということでもないのでしょうが、私はそういった戦争の議論を聞くたびにいつも、「死」というものを直視した議論をしてほしいと思います。

 我々は生物です。あらゆる状況で我々の肉体は全力で生きようとして、すべての力を使って「死」を避けようとします。おそらくはその肉体の本能的反応が死の「恐怖」と「苦痛」を生みます。そうである以上、「死」は本質的に「恐怖」と「苦痛」にまみれたもので、「覚悟の死」「安楽な死」というのは、存在しないと、私は思います。
1日24時間清潔かつ快適に保たれ、わずかの苦痛があれば可能な限りそれを取り除く処置をしてもらえる安楽なベッドの上で迎える死でさえ、人はそれを恐れ、苦痛にあえぐことが、端的にそれを物語っています。

 とはいえ、医師として見る限りおそらくは「加齢」は、死の恐怖と苦痛を減らす最大のものです。老いた肉体は、自らに抵抗する力がないことを知っているかのように、病魔に白旗を掲げます。年を取って死の苦痛や恐怖を認識できなくなることは、むしろ神の与えた恩寵なのかもしれません。
 一方で、私が若いころ大学病院で見た若い患者たちの肉体は、そこに残ったすべての力を振り絞って、理不尽ともいえる病魔に抵抗していました。それは長期にわたる多大な苦痛と恐怖の末に、終わることが、ほとんどでした。
 私たちは、死の瞬間まで生きています。生きながら、死の恐怖、苦痛、絶望に苛まれ、身を引き裂かれていくことこそが、死というものなのだ、そこに例外はないのだと、私は思います。

 灼熱の熱帯で、極寒のシベリアで、泥水にまみれ、空腹に苦しみ、自らの肉体が昆虫にさえ蝕まれることを認識しながら死を迎えた人、自ら自らの命を絶つ恐怖に満ちた行為を強いられ、泣くことさえ許されずにそれを実行させられた人、日常の生活の場で、突如銃弾にさらされ、逃げ惑った末に、灼熱の炎に包まれた人、そういった数限りない恐怖と苦痛を生み出したのが先の戦争であったのだという事実から、我々は目を背けるべきではありません。「尊い犠牲」とは「恐怖と苦痛に満ちた理不尽な死」そのものなのです。

 可能な限り、あらゆる英知を巡らせて、そのような「死」を減らすこと、そのような「死」が避けられない事態を二度と生じさせない社会を作ることこそが、今を生きる我々に課せられた課題であると、私は思います。


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