活動報告

 東京新聞が「気分はもう戦前? 今の日本の空気」と題する特集を組み,「今の社会に、戦前のかおりがしないか。」との問いかけをしたところ,論者の一人である政治学者の三浦瑠麗氏が「大日本帝国が本当の意味で変調を来し、人権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、一九四三(昭和十八)~四五年のせいぜい二年間ほど」「『今は、あの二年間に似ていますか』と聞かれたら、私は「全然似ていない」と答えます」とされました( http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2017081202000195.html )。これに対する私とのやりとりが多少巷間に流布しましたので,この問題について,地方政治の現場の実情も踏まえて,私の考えを述べたいと思います。

 まず,三浦氏は恐らくそういう文脈で語っていると思われるのですが,「現代がそっくりそのままの形で戦前に似ているか」という問いがなされたら,私も「全然似ていない。」と答えると思います。
 あまりに当然ですが,戦前と戦後では憲法が違います。取り巻く国際情勢も違います。それ以前に,戦前には携帯電話もインターネットもありません。天皇を元首とする大日本国憲法の下で政治が行われ,日本を含む帝国主義列強に世界の富が集中し,数少ないマスコミと国家が情報を独占し,国民は国際情勢は愚か国内情勢さえ知る手段が限定され,国民からの情報発信の手段に至ってはほぼ皆無という時代と現代をダイレクトに比較して「全然似ていない」というのは,繰り返し,当たり前で言うまでもありません。
 我々が問うべきは,そのようなダイレクトな比較ではなく,様々な時代の変化を超えて,戦前と現在に,共通の傾向,共通の空気が無いか,それこそ今起こっていることの構造分析だと思います。

 そういう視点で見た時,地方政治の現場には,「戦前との共通項」―日本が自らの客観的実力を見失い,国際情勢を無視して,およそ不合理な戦略に基づいて戦争を始め,敗北が明らかになって尚,それこそ2年もの間,国民の権利を徹底的に抑圧して戦争を維持した「失敗の原因」-が相当数散見されます。
 どこの国でもお国自慢は当然ですが,今なお均質で閉鎖的な日本社会は,そのお国自慢を他者との客観的比較をすることなく「絶対の真実」捉えがちです。またコミュニティが内向きになると,外の世界の情勢の変化-特に自分たちではない集団の実力-を正当に評価することを軽視しがちになります。自慢や評価の対象は異なりますが,地方政治の現場においても,同様の事例は正直散見されます。
 さらに,集団の意思決定プロセスが明確でない上に一旦何かの意思決定がなされるとそれに異を唱える事がタブーとされがちな日本社会では,はるか昔に立案されすでに合理性を失っている計画が,誰も異を唱えることができないまま遂行されることが多々あります。そしてその合理性に欠く計画を無理に遂行する負担は,多くの場合「現場の頑張り」に押し付けられます。規模や計画は異なりますが,こちらも似た事例は,今なお地方政治の現場で散見されます。

 おそらくこれらの「失敗の原因」は,戦前と戦後断絶することなく,明治期にさかのぼって日本社会に通底する問題であろうと思います。
 そういったある種「民族性」ともいえる問題を抱えながら,しかし日本社会は恐らく,明治維新から日露戦争に至る明治期は集団主義的傾向が強く,大正期には自由主義的空気が花開き,戦前の昭和期には再び集団主義が強調され,戦後の昭和期には自由主義が開花しという変動を経てきたのだと思います。
 その変動の中で地方政治の現場から日本の現在を見た時私は,率直に,過度に内向きで,過度に外部を軽視し,内部の論理が合理性に優先し,そのしわ寄せを現場に押し付けて当然とする,悪しき集団主義の復活が懸念される状況であると思います。

 そしておそらく,「悪しき集団主義の復活」の原動力の一翼を担っているのが,「戦間期(第一次世界大戦と第二次大戦の間)の日本」は,「国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人」を育てることができたが,戦後の日本はそれを育てることができていないという氏の意見に代表される,「戦前への郷愁」(氏は自らが戦前への郷愁を持っている事を否定するでしょうが,氏の文章を見る限り,そう取られて仕方ないものと思います。)ではないかと,私は思っています。
 戦前,日本が多くの偉人を輩出したことは一日本人として私も大いに誇りに思いますし,それ以前に,戦前の国際社会において日本がたった4か国の国際連盟の理事国の一つであり,世界第3位の海軍国であり,アジアにおいては断トツのリーダーであったことにはある種の喜びすら感じます。世界におけるプレゼンスは,戦前の日本の方が戦後の日本よりはるかに高かったことは,事実として疑いようがありません。
 しかしその主因は,日本が,45億人しかいない世界人口の中で1億を占め,数少ない帝国主義列強の一員として世界の富の独占の一翼を担っていたという当時の世界情勢によるところが極めて大きく,決して戦前の教育が戦後の教育より優れていたからでも,戦前の社会が戦後の社会よりも豊かであったからでもないと,私は思います。
 何より,どれほど戦前の社会・教育が優れ,「『国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人』を育てることができた」としても,それはあくまで当時の国際情勢において優れていたという事なのであって,当時の教育そのままに,教育勅語を暗唱することにエネルギーの大半を使い,英語も,IT技術も,世界の多様性も教えない教育をしたところで,人口が86億人に膨らみ,新興国を含む多くの国にすむ人が瞬時に世界最新の情報・技術に触れ,それを自ら作り,発信できる現代の世界において,日本をリードするのにふさわしい「国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人」を輩出できるわけではありません。

 終戦の日に当たり我々が再度認識すべき事それは,我々の社会は戦争の失敗を今なお持ち続けているという現実を直視することであり,それを克服する手段は,決して戦前の賛美や郷愁ではなく,的確な現状認識に基づいた,現代の社会にふさわしい,現代の解決策を模索する事だと,私は思います。


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